及川豪鳳は本名を一といい、及川直康の子として明治二十七年、岩谷堂に生まれた。直康は南画や書道に造詣が深く、晩年盲目となってからは、定規をあてて毛筆で字を書いた人であった。
 豪鳳は大正三年、十九歳の時、日本画を志して上京。東京芸術大学日本画科の前身であり、東京小石川にあった川端玉章が主宰する川端画学校へ入校した。画学校での指導者には平福百穂や結城素明らがいた。学校の庭には種々の植物があり、鳥や獣が飼われていた。画学生はそれらの写生に明け暮れる毎日であったという。
 だが、画業が進んでいた大正五年、岩谷堂の両親が相次いで亡くなった。両親の死によって一旦帰郷したが、絵画の道を諦めきれず、「ここに残って商人になれ」という親類の意見を振り切り、弟妹を母の実家・菅原権五郎方に頼んで再び上京した。


生前の及川豪鳳


正法寺如意輪
観世音菩薩像図


江刺の山河を元に描いた 水墨画
(襖、及川利臣氏所蔵)


宝生の玉(軸装、及川利臣氏所蔵)

 大正七年、川端画学校を卒業。卒業作品の植物写生は「甲上」という優秀な成績であり、師の川端玉章から「東京に留まって画家として大成するように」と諭された。自分も東京に留まりたかったが、弟妹のことを心配して岩谷堂に帰郷した。
 豪鳳は中町に居を構え、依頼されて日本画を描いた。掛け物、ふすま絵等に花鳥を描くのを得意としていたが、いずれの作品も極めて水準が高く、しかも自然愛、人間愛に溢れたものであった。
 豪鳳の家は、代々岩谷堂の伊達家に仕えた武士の家柄で、豪鳳その人も古武士的性格を有していた。たとえば、その当時の日本画は「画会」を催し、自分の作品を展示して客を招き、作品を買わせることを常としていた。だが、その画会をみんなに迷惑をかけるからといって好まず、むしろ「人に頼まれたものなら何でも書く」と言って、依頼されれば何でも描いた。
 現在に至って代表的作品は仏画の大作が多い。次の作品はその代表作である。

毛越寺金剛院「釈迦三尊」(平泉町)
▼光明寺襖絵「寒山拾得図」(向山)
▼松岩寺所蔵「阿弥陀三尊図」(川原町)
▼広徳寺所蔵「白衣観音」(稲瀬)
▼安楽寺所蔵「大日如来」(北上市下門岡)
▼正法寺「鳳凰図」ほか(水沢市黒石)

 書家としても知られていた豪鳳は、自宅で書道塾を開いていた。豪鳳は字を書くことだけでなく、言葉の意味やしつけ面も子供たちに教えていた。時には優しく、時には厳しい先生であったという。
 平成十年五月、蔵を生かした町並みづくりで注目される中町の一角に、豪鳳の作品を展示する「中町豪鳳美術館」ができた。この小さな美術館は日曜・祝祭日ごとに開館されており、繊細かつ温かな作品が訪れる人々の心を和ませている。美術館は豪鳳が長年住んだ中町の人々の手によって運営されている。

※参考文献『タウンえさし』(昭和五十七年、江刺民声社刊)巻頭、『続 江刺を創った人々』執筆/荻田耕造