軍馬「勝山号」は1933年(昭和8年)5月7日、父・アングロノルマン種ランタンタン号、母・国内産洋種第二高砂(たかさご)号の子として、岩手県九戸郡軽米町の農家・鶴飼清四郎宅で生まれた。出生届時の名前を「第三ランタンタン号」という。翌年10月、1歳5ヶ月のとき、九戸郡の2歳馬せり市において、岩手県江刺郡岩谷堂町(現:奥州市江刺区)の伊藤(いとう)新三郎(しんざぶろう)の所有馬となった。
  「ランタン」の愛称で呼ばれたこの馬は、伊藤家と、新三郎の実家である同郡愛宕村の小澤家で飼育されていたが、1937年(昭和12年)9月、4歳4ヶ月の時、支那事変(日中
戦争)のため徴発され、歩兵第百一師団歩兵第百一聯隊(れんたい)(赤坂)に配属。「勝山号」と改名された。すぐに聯隊副官藤田悌二郎(ふじたていじろう)大尉の乗馬となって、中国の上海へ上陸した。

昭和15年2月19日、赤坂聯隊将校集会所前で感激の再会を果たした伊藤新三郎と勝山号。額には「軍馬甲功章」が輝く。
(写真提供:小玉克幸)



畑俊六陸軍大臣名で出された「軍馬甲功章」の賞状。第107号である。血統は不詳となっている。 一般に、勝山号が甲功章第一号のような記述が見受けられるが、実際は満州事変から何頭も授章している。 なお、この賞状原本は火災により消失している。
(『聖戦第一の殊勲馬勝山號』より)




  上海では藤田大尉が戦死し、聯隊長加納治雄(かのうはるお)大佐の乗馬とされたが、すぐに加納大佐も戦死。後任の飯塚國五郎大佐の乗馬となった。勝山号は同年11月蘇洲河渡河作戦で迫撃砲の砲弾で最初の負傷。次いで翌13年5月、徐州(じょしゅう)会戦の支作戦(しさくせん)として阜寧(ふねい)攻略中、機関銃弾を被弾。2回目の負傷をした。さらに同年8月には盧山(ろざん)・秀峰寺(しゅうほうじ)前の戦闘で、左目頭より左頚部中央に機銃弾が貫通するという重傷を負った。この時、約3ヶ月もの間、部隊の獣医や当番兵の熱心な看護を受け部隊へ復帰した。勝山号負傷の数日後、飯塚大佐も戦死した。次いで、後任の布施安昌(ふせやすまさ)大佐の乗馬となったが、昭和14年2月、南昌(なんしょう)攻略戦を前に3度目の戦傷が再発し、半年余りの間後方での療養を余儀なくされたが、またしても奇跡的に復帰を果たしている。


  部隊長が下川義忠(しもかわよしただ)大佐に替わった、昭和14年12月。戦地において勝山号は陸軍大臣より「軍馬甲功章」を授章。翌年春に部隊は凱旋し、勝山号も内地へと帰還した。
  「勝山号帰る」の報は岩手へも伝わった。昭和15年2月19日、赤坂聯隊において、伊藤新三郎、鶴飼清四等関係者は、勝山号と感動の対面を果たした。3月30日には、日比谷
公園において朝日新聞社が主催する「勝山号」に感謝する会が開かれている。これは「今事変に出征、三度も傷を受け乍(なが)ら、ひるまず働いて甲功章を頂いた軍馬『勝山号』に感謝する」催しであった。ここでは、サトーハチローが作詩した「勝山号を讃へませう」という童謡が発表された。他にも様々な行事に借り出された勝山号は、東京で太平洋戦争開戦を迎える。戦時中も変わらずに手厚い飼育管理がなされていたという。
 


軍馬と共に食事をする兵士たち。戦地での1コマ。のどかな風景であるが、戦場の主役は馬から戦車や自動車など機械化部隊へと移行しつつあった。 その後、この写真の兵士や馬はどうなったことであろうか?
(『写真週報』より)

  なお、勝山号の報道を受け、伊藤新三郎は新たに「勝江」という馬を購入。昭和15年12月に「第二勝山号」として陸軍へ献納した。これに対し、東条英機陸軍大臣より感謝状が出されている。
  また、戦局が激しさを増す一方の昭和18年2月11日、息子の貢を伴った伊藤新三郎は勝山号に面会に行っている。戦時下に部隊の異動が頻繁に行われ、勝山号の所在が分からなくなっていた中での幸運な再会であった。
  敗戦が迫っていた昭和20年8月10日、勝山号は軍の指示によって、部隊を脱出し、農家へ避難。終戦後の10月17日、元の飼主・伊藤新三郎宅へ奇跡的な生還を果たした。
  敗戦で戦時中の栄誉も過去のものとなり、勝山号は故郷で再び農作業に駆り出された。馬糧にも事欠く状況で、小澤家・遠藤家など親類縁者へ預けたこともあった。
  1947年(昭和22年)6月4日、戦傷の後遺症で勝山号は死んだ。
  死後、元軍獣医の希望で、解剖が行われた。名馬の名前に恥じない大きな脳が白日の下にさらされ、次いで、迫撃砲弾の弾片が摘出された。
  勝山号の亡骸は、地元・万松寺の住職によって弔われ、当時、伊藤家が在った裏庭に葬られた。伊藤貢に対し、住職は「勝山号は馬頭観音になった」のだと告げたという。
  これらのいきさつは、伊藤新三郎の息子である貢が著した『遠い嘶き』に詳しい。
  戦後、「墓地を含む一体が、中核工業団地に接収され、近寄るのも難儀な藪の中に埋もれてしまった」と貢は書いている。
  今でも折に触れて、勝山号が話題となることがある。それは、戦時中の「栄誉」故だろうか?あるいは、馬産地・岩手の「馬文化の名残」なのであろうか?
  いずれにしても、勝山号は、それ程遠くない過去に、この地に居た多くの馬たちの記憶を紡ぐ手がかりには違いない。
  かつて“聖戦第一の受勲馬”と謳(うた)われた勝山号、否、「ランタン」は、伊藤家に暮らした犬・猫・綿羊たちと共に、静かにひっそりと草生(くさむ)す山腹の一角に眠っている。

文責:NPO法人・いわてルネッサンスアカデミア正会員
勝山号専任研究者 小玉克幸

『故郷へ生還 軍馬「勝山号」の軌跡』
胆江日日新聞において、6月12日(火)より毎週火曜連載中。

 

・歩兵第百一師団歩兵第百一聯隊(れんたい)(赤坂)

 「師団」とは軍の編成を示す単位である。時代や状況によって人数に変動はあるが、その規模は15,000名から25,000名程と考えれば妥当である。日本軍の場合、師団といえば歩兵師団であるが、他に戦車師団、高射師団があった。
  「聯隊」は日本国内各地に所在し、平時は徴兵された兵士の訓練を行う。有事は、現役の兵隊から戦闘部隊を編成し、予備役兵から新設部隊を編成することもある。聯隊が2つで「旅団」を編成し、歩兵旅団2つを基幹として、戦車兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵などの部隊が加わり、「師団」を編成する。師団が複数集まり「軍」を編成する。第2次世界大戦ころには、歩兵3個聯隊を基幹として歩兵師団が編成された。
  日本陸軍は常備部隊として、17個歩兵師団を擁していた。東京には近衛師団と歩兵第一師団があり、それぞれ隷下に騎兵・戦車・航空隊・砲兵部隊など特科部隊を管轄していた。
  歩兵第一師団に所属する部隊が赤坂にあった歩兵第一聯隊である。
  歩兵第百一聯隊は歩兵第一聯隊において、平時に兵役を終えた予備役兵を中心として編成された部隊である。現役聯隊に比べて、兵員の質は元より、装備においても見劣りするものであった。特に歩兵第百一師団は動員編成からほぼそのまま戦場に向かったため、訓練の暇すら無かったという。
* 参考文献:
   平田晋作『陸軍読本』、「東京兵団」戦機篇、戦史叢書「支那事変陸軍作戦」他

 

 

・部隊の異動

勝山号の所属した部隊(及び部隊長)は次のように変遷している。
  出征〜帰還まで「東京歩兵第百一師団・赤坂歩兵第百一聯隊」(昭和12年9月〜昭和15年2月まで。藤田大尉・加納大佐・飯塚大佐・布施大佐・下川大佐)→
  帰還後、「留守東京歩兵第一師団・歩兵第一聯隊留守隊(赤坂区檜町)」(加藤勝蔵大佐)
  →「東京独立第六十一歩兵団・第二次歩兵第百一聯隊(檜町)」→
「同・第二次歩兵第百一聯隊(赤坂区一ツ木町)」(昭和17年3月〜羽鳥長四郎大佐)→
「同・第二次歩兵第百一聯隊(川崎市溝ノ口)」→「東京歩兵第六十一師団・第二次歩兵第百一聯隊(溝ノ口)」(羽鳥部隊長は戦闘部隊ともに中国へ出動)
  →「東京警備司令部・留守近衛第二師団・東京第一歩兵補充隊(溝ノ口)」(昭和18年6月10日以降、飯田雅高中佐。昭和19年6月3日〜昭和20年4月9日まで平沢喜一大佐。
4月10日から8月の終戦までは西村章三大佐)となる。
  よって、勝山号は藤田大尉から数えて、都合10名もの部隊長に仕えたことになる。
  なお、勝山号が一時「近衛歩兵第三聯隊」に所属していたという記述を散見することがあるが、これは『遠い嘶き』に起因する誤解である。

* 参考文献:
歩兵第一聯隊写真集編集委員会『東京歩兵第一聯隊写真集』国書刊行会(1981年)、上法快
男企画『帝國陸軍編制総覧』芙蓉書房(1987年12月)他

 

 

・ 『遠い嘶き』と勝山号に関する主要文献

ここでは、さらにすすんで勝山号を研究する方へ、基本的な文献を紹介する。
1勝山号関連
伊藤新三郎述『斃れるまで平和を絶叫した愛馬を憶う』(1947年6月記録)
*伊藤新三郎が戦後残したメモを昭和50年頃に印刷したもの。勝山号のエッセンスが良くまとめられている。入手・閲覧は困難である。

伊藤貢著『遠い嘶き−軍馬勝山号回想記』江刺プリント社(1992年12月)
*勝山号に関する基本文献。新三郎の息子で、実際に勝山号を飼育した貢が、弟妹の協力で纏め上げたもの。戦時中の活動など、記載の無い事項も多いが、この本に勝る記録は無いと言って過言ではない。公立図書館などに寄贈されている。

荻田耕造編『ふるさとの想い出 写真集(明治大正昭和)江刺』国書刊行会(1983年)
*第二勝山号の写真がある。

竹澤哲男著『もの言わぬ戦友』自費出版(2001年9月)
*軽米側の資料を中心に獣医師である著者がまとめたもの。『遠い嘶き』に掲載しなかった資料もあるため貴重だが、様々な文献からの引用が多い。

小池政雄著『聖戰第一の受勲馬・勝山號』鶴書房(1941年12月)
*戦時中に書かれた勝山号の伝記と戦記。著者は勝山号の調教手で、戦後、勝山号の部隊脱出に協力した。現在は入手が非常に困難である。

水谷温著『馬上集』偕成社(1941年2月)
*勝山号が内地に帰還した後の記事が興味深い。

工藤朝野輔著『駒は嘶く』新興亜社(1943年5月)
*名馬として勝山号を紹介している。また、勝山号が東部第六十二部隊の副官乗馬である旨の記述がある。

2軍馬全般
  明治百年史叢書『日本騎兵史 上・下』原書房(1970年2月)
  桜井忠温監修『國防大事典(普及版)』中外産業調査会・国防思想普及会(1935年6月)
  走尾一三陸軍獣医中佐著『放馬録 科学随筆』富山房(1944年2月)
  *軍馬の政策に関しては上記の資料が適当であると思う。

 陸普第3314号『馬事提要』(1915年)・教育総監部編纂『馬事提要抜粋』(1941年)
  *実際の兵士が馬を扱う際の参考書。兵書の常として読みづらいが、良い資料である。

3加納部隊長・飯塚部隊長関連
  富田常雄『支那事変少年軍談 壮烈・加納部隊長』大日本雄弁会講談社(1938年9月)
  野村愛正『支那事変少年軍談 豪勇・飯塚部隊長』大日本雄弁会講談社(1938年12月)
  山下邦雄著『飯塚部隊長の学生時代』秀文閣書房(1939年3月)
* 上記2冊は、少年向けの読み物であり、誇大な表現などはあるが、戦場の空気や、部隊長の人柄が良く伝わる本である。再調査をする度に、現在進行形の戦争中によくぞここまで研究したものだと感心する。おそらく、広範囲の聞き取りがなされているのであろう。『飯塚部隊長の学生時代』は上記に無い部分を補足する資料である。

 畠山清行著『東京兵団 T〜V』(胎動篇、戦機篇、長征篇)光風社(1963年)
* 著者が丹念な聞き取り調査によって著した、「第二次上海事変」と歩兵第百一聯隊にかかわる殆ど唯一の資料。
戦史研究家の宗像和弘氏も『戦記が語る日本陸軍』の中で、高く評価している。

他にも、当時の新聞記事や雑誌など様々な文献に勝山号の名前は挙がっている。