宮沢賢治は大正六年八月二十八日、盛岡高等農林学校三年の時、江刺郡役所(現・奥州市江刺区)の依頼を受け、土性調査をする目的で、学友二人と共に初めて江刺を訪れた。
 この日、岩谷堂から盛岡にいる親友、保坂嘉内宛に「今日当地ヘ来マシタ。アシタカラ十日バカリ歩キマス。コレカラ暫ク毎日御便リ致シマス。(以下略)」という葉書を出している。その後、三十一日田茂山(羽田)、九月二日伊手、三日人首からと、江刺郡内から出した四通の葉書が今も残っている。
 賢治はこの調査の旅で、種山ヶ原をはじめ明るくゆったりした江刺地方の自然が大変気に入り、以後、何度も訪れている。こうして種山ヶ原と江刺は、賢治の短歌、詩、童話、戯曲の舞台として、何度となく登場することとなる。


星座の森に立つ「風の又三郎像」
(撮影/高橋貞勝氏)


江刺出身の菊池武雄氏が
装幀した 宮沢賢治著
「注文の多い料理店」(復刻版)

 

 種山ヶ原を舞台にした作品の中で最も知られているのは、三度映画化されている「風の又三郎」だろう。最初の映画化は戦前の昭和十五年で島耕二が監督。有名な「ドードド」で始まる歌は、このときに杉原泰蔵が作曲したものである。二度目は昭和三十一年、村山新治が監督した。江刺でロケされたのはこの作品だが、残念ながら三作のうち、これだけがビデオ化されていない。
 平成元年に映画化された『風の又三郎〜ガラスのマント〜』は、伊藤俊也監督作品。壇ふみ、草刈正雄、樹木希林、内田朝雄らが出演した。この映画の中で少年達が踊っていた剣舞は、原体剣舞から習ったものである。

 「風の又三郎」のほか、童話では 「さるのこしかけ」「達二の夢」「種山ヶ原」などが種山ヶ原を舞台にした作品。賢治は花巻農学校の教師をしていた大正十三年に、これらの作品を変形・発展させ、戯曲「種山ヶ原の夜」を書いて生徒に演じさせている。昭和三十七年に高原の一角、立石近くに建てられた詩碑に刻まれているのは、この戯曲の中で使われている「種山ヶ原の雲の中で刈った草は」で始まる詩「牧歌」だ。 賢治の作品には、岩手の自然を舞台にしているものが多いが、中でも岩手山、早池峰山、種山ヶ原は登場する頻度が高く、研究家の中では「賢治三山」と呼ばれている。
 種山ヶ原がいくらかでも全国的に知られているのは、種山ヶ原が賢治に「発見」されてからであるのは言うまでもない。
 平成六年五月、種山頂上に向かう道路沿いにコテージ、オートキャンプ場などを配置したアウトドア施設「種山高原・星座の森」がオープンした。施設の中央にあるコミュニティー広場には、賢治を愛する市民有志によって設置された「風の又三郎像」(日本芸術院会員・中村晋也氏作)が立っており、今にも飛び立ちそうである。


つつじが咲く5月の種山高原
(撮影/ナチューラ)