匂い優しい白百合の
   濡れているよなあの瞳
   想い出すのは想い出すのは
   北上河原の月の夜  

  日本がようやく敗戦から立ち直り、高度経済成長期へ向かおうという昭和30年代の中頃、全国津々浦々に現れた歌声喫茶で、「北上夜曲」は大いに唄われた。しかし、流行を続けながらも作者が分からず、作者不明という事実がますますこの歌を神秘的なものにした。
 昭和36年になって、作者が名乗り出る。作詞は岩手県江刺市出身(現:奥州市江刺区)の菊地規(のりみ)、作曲は岩手県種市町出身の安藤睦夫であった。「北上夜曲」の作者が分かり、この歌が実は暗い時代に十代の手によって作られていたという話題は、当時、センセーションを巻き起こした。
  この歌はいくつものレコード会社が競作。和田弘とマヒナスターズ、ダークダックス、菅原都々子らがレコーディングし、大ヒットした。現在もなお、国民的愛唱歌として歌い継がれている。
 作詞者の菊地規は、大正12年、江刺郡田原村原体(現奥州市江刺区田原)に生まれた。水沢農学校在学中から詩作をはじめ、友人たちと同人誌を発行するなど創作活動をしていた。
 当時、水沢農学校には安藤という配属将校がおり、菊地規と安藤とは同じ下宿に住んでいた。この将校が安藤睦夫の叔父にあたる。旧制八戸中学の生徒であった睦夫は、叔父の下宿を訪れて規と出会い、二人は意気投合。歌を作る約束をした。
 睦夫に曲をつけてもらうために、昭和15年12月に規が初めて作詞したのが「北上夜曲」だった。翌16年2月、睦夫は規から渡された歌詞の曲作りに没頭。試験勉強がおろそかになり、危うく留年の憂き目を見るところだったという。菊地規、安藤睦夫は、その後、共に教師の道を歩む。
  菊地規は農学校在学当時、通学に北上川に架かる小谷木橋を利用していた。また、北上川に近い江刺市愛宕(おだき)(現:奥州市江刺区愛宕)の下川原に下宿していたこともあった。北上河畔で見かけた女学生にほのかな思いを寄せ、歌のモチーフにしたのであろうか。