「さらばシベリア鉄道」太田裕美(80)
「風立ちぬ」松田聖子(81)
「冬のリヴィエラ」森進一(82)
「Tシャツに口紅」ラッツ&スター(83)
「探偵物語」薬師丸ひろ子(83)
「熱き心に」小林旭(85)
「バチェラーガール」稲垣潤一(85)
「怪盗ルビー」小泉今日子(88)
「夢で逢えたら」ラッツ&スター(96)
「幸せな結末」大滝詠一(97)
これらのヒット曲を作曲したのが大滝詠一。本名は大瀧榮一で、昭和二十三年七月二十八日に奥州市江刺区梁川で生まれた。
母親は養護教諭だった。そのため、十一歳のときに遠野市綾織、十四歳のときに釜石市小佐野と、親の転勤のたびに町を移り住んだ。高校は釜石南高校。
上京後、友人を通じて、当時、立教大生だった細野晴臣(ベーシスト・後にYMO)と知りあう。これがきっかけとなって、昭和四十四年(1969)、二十一歳のときに細野晴臣・松本隆(ドラマー、現在作詞家)・鈴木茂(ギタリスト、現在編曲者)と共に「はっぴいえんど」を結成した。
この「はっぴいえんど」は、フォーク全盛の時代に、〈日本語によるロック〉にこだわって音楽活動を行ったバンド。僅か三年間だけの活動だったが、熱狂的なファンをつかみ、二十五年経った今でも、伝説のロックバンドとして語り継がれている。
大滝は昭和四十八年(1973)に、自身のレーベル「ナイアガラ」をつくった。自らアルバムを発表する傍ら、ポップスグループの「シュガーベイブ」や「ラッツ&スター」等のアーティストをプロデュースし、世に送り出す。「シュガーベイブ」からは、山下達郎・大貫妙子・伊藤銀次ら、後に日本の音楽シーンで大活躍するミュージシャンを輩出した。
大滝の出世作となったのは、昭和五十六年(1981)に発表したアルバム『ロング・バケーション』である。これは日本で初めてCD化された栄誉あるアルバムだ。
このあと、大滝は次々とアメリカンロックの流れをくんだアルバムをリリース、ほかのアーティストにも曲も提供した。その多くが大ヒットし、いつのまにか大滝詠一は「日本ポップスの父」と呼ばれるようになっていた。
大滝詠一のバイオグラフィーには、「二歳の時に鹿踊りの太鼓の音にしびれる」と書かれてある。もしかすると、大滝は江刺に住んでいた十年の間に郷土芸能に触れ、音楽に目覚めたのかもしれない。
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