江刺土地改良区の和室には、「都にはあこがるるとも村人のつちかう業を捨ててなるべき 昭和三年五月 愛村」という額が掲げてある。愛村とは、「江刺平野開発の先覚者」、また「江刺金札米の父」とも言われる旧愛宕村長で江刺郡農会会長・小沢懐徳の雅号である。江刺で本格的に耕地整理に着手したのは、大正四年に江刺耕地整理組合が発足してからであり、その最も重要な事業が進められたのが昭和初期の小沢懐徳組合長(大正十五年〜昭和十一年在任)の時代であった。
 大正から昭和初期にかけて江刺郡の農業は、地味は肥沃だが灌排がうまくいかず、耕地整理を施していないので、作物の生育を著しく妨げていた。「農は国の基」を信条とする懐徳は、余りにも悲惨な農民の実態に、これを救わねばならないことを固く決意する。
 改善を図るためには、国策でもある耕地整理問題に、早急に取り組まなければならない。大正四年五月から十二月、懐徳は岩手県の委嘱をうけて山形・秋田の耕地整理を視察した。


いまも江刺の田園を見つめるように
愛村公園に立つ小沢壊徳像


稲がたわわに実った秋の江刺の水田

 大正八年、懐徳は愛宕村長に当選。江刺郡農会長にもなった懐徳は、単に増収を計るだけでなく、産米の品位の向上を図る方途を考え、優良品種の選出普及が緊急の課題との結論に達した。
 大正十年から江刺郡内各村に品種比較試験地を設置。懐徳は愛宕村にあった岩手県農業試験場胆江分場で導入した新品種「陸羽132号」が冷害に強く、味もいいので江刺に普及すべきと決意する。秋田から個人資金で種籾を購入、希望者に頒布した。
 この産米宣伝のため、東京で試食会を開いたところ、全国一の味だと大好評を博し、注文が殺到した。初めは赤札だったが、後に金色の札を付けて売り出すと、「江刺金札米」として、たちまち全国的に名声が広まった。

 さらに懐徳は、旧南部藩領立花の北上川(現北上市展勝地近く)から取水するという計画をたてた。多額の経費を投じ、長年にわたって借金返済を強いる耕地整理はやるべきでない、との反対派も多くいたが、あらゆる反対意見の人を説得した。
 昭和五年の江刺中央耕地整理組合の総会において、幹線水路を通すことが決議された。そして人力による男山隧道開削の難事業に着手。昭和八年三月工事が完了し、江刺平坦部を潤す大幹線用水路が完成した。大正九年、立花頭首工も完成。広瀬川、人首川を越えて田原、羽田まで灌漑できるようになった。
 昭和十年十一月五日、小沢懐徳は農事功労者として新宿御苑における観菊御宴に召され、昭和天皇の単独拝謁を仰せつかった。
 昭和三十三年、岩手県農業試験場胆江分場の一角に、小沢懐徳の遺徳を顕彰する愛村公園が開園され、小沢懐徳像が建立された。公園と銅像は、地元の老人クラブの手によって、いつもきれいに清掃されている。

※参考資料 川東老人クラブ編『江刺平野開発の先覚者 小澤懐徳』(平成九年)


江刺金札米とともに江刺の代表的な農産物となっている江刺リンゴ(撮影/紅果園)
江刺リンゴの主力品種は「ふじ」と「ジョナゴールド」。昭和45年にわい化栽培を導入して以来、関係者の努力と工夫により、高級リンゴ産地の座を不動のものとしている。江刺のリンゴ団地は、200mの標高差があり、その標高差が長期安定出荷につながっている。