奥州市江刺区米里は、奥深い歴史を持つ山里である。昭和三十年代まで気仙地方へと向かう宿場町として栄えた。宮沢賢治の詩「人首町」の舞台ともなっている。
 佐伯郁郎(一九○一〜一九九二)は明治三十四年、この江刺郡米里村人首に生まれた。本名は慎一という。旧制盛岡中学、早稲田大学文学部仏文科を卒業後、内務省警保局図書課に勤務。図書の検閲、出版傾向の調査、企画等を経て、戦時中は情報局情報官として時代の中枢に位置した。主に文化団体の指導と監督、出版指導など、文化・文芸関係の職務にあたった。
 郁郎は大学時代から詩作を始めており、代表詩集には『北の貌』『極圏』などがある。郁郎は、詩の仲間などと共に昭和初期から、東京を舞台として様々な文化・文学運動に参加していた。その活動や内務省の仕事を通して、北原白秋萩原朔太郎草野心平山本有三小川未明ら多くの詩人や作家、児童文学者たちと公私にわたって交流を深めた。



生前の佐伯郁郎


佐伯郁郎の著書(佐伯研二氏所蔵)

戦時中における詩人や作家の動向は、一般には知られていない。ほとんどの文化人が、国策協力への道を邁進したが、その事実については、誰もが堅く口を閉ざしたからであった。「戦争協力」という問題が我が身にふりかかることを恐れてのことだった。
 戦中における佐伯郁郎の評価は、大きく二つに分かれる。国家官僚そのものだったと厳しく指摘する人がいる一方で、郁郎の援助で救われた詩人や作家が、少なからずいたと証言する人もいるのだ。
 戦時中に文化・芸術の主導権を握ったのは内務省と情報局だった。それは郁郎氏の経歴を指す。郁郎は国策協力へと導いた側に位置した人間だったのである。
 おそらく、郁郎は「芸術と国家」、つまり「自由と統制の谷間」に位置し、苦しい選択を迫られていたのではないかと考えられる。

 戦後の昭和二十一年四月、郁郎は岩手県庁に転任し、社会教育行政に従事。昭和二十年代後半には岩手大学の厚生課長を務めた。
 定年後は、生活学園短期大学(現・盛岡大学短期大学部)教授として、保育科の設立と発展に貢献する。このほか県社会福祉協議会常務理事、社会教育委員、岩手詩人クラブ初代会長等を歴任。主に文化・教育・社会福祉の分野に尽力した。
 詩人で官僚。その特異な過去の経歴について一切語ることなく、佐伯郁郎は平成四年にこの世を去った。享年九十一歳であった。
 現在、米里の生家には、親族である詩壇史研究家・佐伯研二さんの手によって、蔵を改造した「佐伯郁郎資料室」が設けられており、研二さんはそれらの整理・調査にあたっている。なお、旧米里中学校の校庭には、佐伯郁郎の尽力で建てられた児童文学者・小川未明の詩碑がある。

 


川端康成、小川未明土屋文明の直筆の短冊
(佐伯研二氏所蔵)


北原白秋西条八十の直筆の色紙
(佐伯研二氏所蔵)


山本有三井上靖からの手紙(佐伯研二氏所蔵)