寛政年間、百姓一揆を起こした “義民”清三郎 天明の大飢饉とそれに伴う疫病の流行、さらに寛政に入ってからも北上川やその流域の河川の大洪水に襲われるなど、庶民は生活に堪え切れず、田畑を捨てて他所へ逃れる者が多く出るようになった。
 寛政八(一七九六)年冬、盛岡藩の南部領で大百姓一揆が勃発した。仙台藩伊達領の伊手にもいち早くこの情報が伝わった。江刺郡伊手村口沢の百姓であった清三郎は、有志たちの協力を得て仙台藩に対する訴願の手立てを進めていた矢先だった。清三郎たちも意を決し一揆に踏み切ったと思われる。

 

奥州市江刺区伊手口沢にある清三郎の碑

 寛政九(一七九七)年三月七日、清三郎指導のもとに村民が集結し、仙台表に強訴しようとした。まず横瀬村を引き入れ、数百人となり、さらに近接の浅井・角掛・次丸・原体村にも呼びかけ、九日夜半には、総勢千六百人が岩谷堂の大明長根に集結し上仙を企てた。岩谷堂の館主は、家老を現地に派遣し、鎮撫に努めるとともに、願箇条を仙台表へ進達することを約束した。
 一二日になると、この一揆の動きは江刺郡全域、さらに胆沢郡に伝播。水沢前沢でも衝突を起こし、ついで磐井郡(現在の一関市)でも発生。また気仙・登米・栗原・遠田・玉造・志田の各郡(現宮城県北など)にも及び、仙台藩未曾有の大一揆、「仙北十郡大百姓一揆」となった。 
 各村から出された農民たちの願箇条は、おおむね次のようなものであった。・不当な課税や借上に対するもの ・買米に対するもの ・郡方役人・村方役付に対するもの ・窮迫農民救済に関するもの。
 一揆は、五月上旬に終息。これにより仙台藩では、不正や私曲を働いた役人や大肝入・村肝入を処分したり、交代させたりした。奉行たちは従来の「郡村仕法」改革の議を練り、岩谷堂多聞寺にて次のような指令を出した。これを「寛政の転法」という
・御代官は、御分領中に二八人を置いていたが、九人を減員する ・郡村の諸償は、すべて代官が詳しく吟味し、真に止むを得ざるものに限り、承認の印を与え取立てさせる ・山林方横目・山林方締り役・御普請方廻り加勢役・定用水賦り・御本石所受払役は全廃、受払取扱はすべて代官方横目の仕事とする ・前条の諸役人と御物威役人とで、御分領中でおよそ三百人前後の役員を減員する
 など一五項目の条項となっている。

奥州市江刺区岩谷堂向山にある
清三郎の碑

 この新法により、農民が苦痛としていた諸役人からの重圧は軽減し、諸償も軽減され、作事・普請に要する夫役も改革され、用立てた諸費の未払分の精算についても目鼻がついた。さらに年貢の先納もなくなった。この後首謀者の召捕処分が行われた。
 首謀者を知り得た代官は、多数の捕手を引き連れ、清三郎を召捕るべく口沢に向かった。降雪が多く寒さの厳しい朝だった。
 清三郎は岩谷堂の伊手坂で処刑されたと言われている。生家の前の石碑には、「寛政十年十二月十九日」と記されており、この日は清三郎の命日であると伝えられている。