連続放送劇『鐘の鳴る丘』は、昭和22年7月から3年半にわたってNHKラジオから放送され、古関裕而作曲の主題歌「とんがり帽子」とともに大流行した。昭和23年には、松竹によって映画化され、全部で3本作られている。主人公である浮浪児たちの喜びや悲しみに、敗戦間もない日本中が涙し、国民の心に明日への大きな希望を育てた。
 『鐘の鳴る丘』の舞台となった孤児院は、戦中、岩谷堂に家族を疎開させていた菊田一夫が、疎開先の旅館から見た江刺市南町(奥州市江刺区南町)の岩谷堂町役場(現明治記念館)の建物をモチーフにしたと言われている。現在、明治記念館からは、午前7時と午後5時に「とんがり帽子」のメロディーが流れている。

 

昭和20年代の江刺市南町の岩谷堂町役場

 


菊田一夫

  菊田一夫の本名は菊田数男。明治41年に横浜で生まれた。家庭が複雑で何度も養子に出され、幼児期は台湾で過ごした。小学校卒業直前には、大阪の薬種問屋へ丁稚奉公に出されたりもした。苦労の多い少年時代を送る一夫の心に、いつしか詩心が芽生え、神戸にある夜間の商科実業学校に通いながら詩の同人雑誌に寄稿した。 その後、上京し、萩原朔太郎やサトウ・ハチローとの出会いを経て、22歳のとき、古川ロッパのために喜劇を書く。昭和11年に東宝の嘱託となり、18年に「花咲く港」を発表。これが劇作家としての本格的なデビユー作となった。

 昭和27年からは「君の名は」を執筆。このラジオドラマも「女湯が空になる」ほどの大ブームを巻き起こし、映画化もされた。この後も脚本家、演出家として活躍し、戦後演劇界の第一人者となった。
 菊田一夫が家族を江刺に疎開させたのは、岩谷堂出身の森田康一の世話による。森田は軍人だったが、除隊して菊田一夫の書生になり、劇団にも所属していた。疎開していたのは、妻の高杉妙子(女優・映画「鐘の鳴る丘」に出演)とよちよち歩きの女の子、そして妻の両の4人。本町にある及政旅館の離れを借りて生活していた。

 


連続放送劇「鐘の鳴る丘」放送脚本

菊田一夫は、ときおり東京から江刺に来ては、着物に袴姿で散歩をしていたという。
 菊田一夫は戦後も江刺に立ち寄っており、共学になったばかりの県立岩谷堂高校(旧岩谷堂高等女学校)を訪れ、チエホフ作の演劇「桜の園」の演技指導をしたエピソードが残っている。  

及川豪鳳氏の娘婿
及川利臣氏作画による
「鐘の鳴る丘」

 昭和57年、建物の復元が完了。この時、「とんがり帽子」のオルゴールが取り付けられた。平成8年には、明治記念館前に詩碑が建立され、菊田一夫作の歌詩が刻まれている。
■参考  「とんがり帽子」のモチーフとなった建物は、明治7年に岩谷堂共立病院として建設された擬洋風建築の建物で、岩手県指定有形文化財。戦前は岩谷堂実科女学校、戦中・戦後は岩谷堂町役場、昭和30年代には岩谷堂幼稚園としても利用された。現在は明治記念館として明治期の医療資料が展示されている。