■天涯孤独の少年時代
川端康成は、明治32年(1899)、大阪市北区此花町で、開業医の川端栄吉とゲンの長男として生まれた。
 2歳のとき、父栄吉が病死。大阪豊川の母の実家に移ったが、3歳のとき、母ゲンも病死した。そこで祖父母とともに住んだが、8歳のときに祖母カネが病死。12歳には分かれて住んでいた姉芳子も病死した。
 その後、盲目の祖父と2人で暮らす。川端は14歳になり、旧制茨木中学(大阪)に進み、大正4年から6年まで寄宿舎に入った。
 16歳で祖父が死亡。これで直系の肉親がすべて死亡し、そのため川端は天涯孤独の身となってしまった。
 だが、川端の家は旧家であったため、財産は残っていたらしく、大正6年に旧制第一高等学校への入学がかなう。旧制第一高校卒業後は、東京大学英文科に進学。翌年、国文科に転科した。

豊川村宿久庄の川端家 

小学校の頃の康成

高文芸部の機関誌「校友会雑誌」に載せた「ちよ」(大正8年6月) 

第六次「新恩湖」同人時代
左上から 石浜金作、南部悠太郎、
鈴木彦次郎、川端康成 
■カフェーエランでの出会い
文科生だけの寮で寝食をともにしていた鈴木彦次郎、石浜金作、三明永無らに誘われ、本郷のカフェーエランに行ったとき、女給をしていた伊藤初代と知り合った。初代はそのとき14歳であった。
カフェーエランは、店としては大きくなく、テーブルは五つくらいしかなかったが、どことなく品がよく、清潔な雰囲気のカフェーだった。また家庭的な雰囲気も感じられる店であり、そこが気に入って学生たちは足げく通った。酒も出したが、コーヒーと菓子が中心。
 マダムは30過ぎの彫りの深い青白い顔の女で「おます」といった。おますは、明治末期に森鴎外が中心になっていた雑誌「スバル」に資金を出していた平出修の弟の未亡人であった。

14歳の初代とその筆跡

女給と山田ますおばさんと下宿の学生さん(エラン)
■「ちよさん」
カフェーエランでは、初代は「ちよ」と呼ばれていた。この頃の初代のことを鈴木彦次郎は、こう振り返っている。「ちよは、すきとおるように皮膚のうすい色白な少女であったが、痩せぎすの身体にはまだふくらみも見えず、固いつぼみの感じだった。人なつこく陽気にはしゃいではいたが、時折ふいと孤独な影もさして、さびしげにも見えた。おばさんはいつもちよに気をくばっていて、酔客が彼女に悪ふざけをすると、きつくたしなめるというふうだった」
 エランには、佐藤春夫、谷崎潤一郎ら当時の著名な文人たちも足を運んでいた。初代は「僕はね」と谷崎潤一郎のしぐさを巧みにまねて学生たちを喜ばせるなど、ひょうきんな一面も持っていたという。川端は冗談を言うわけでもなく、ただ大きな目をぎょろぎょろさせていた。そんな川端のことを初代ははじめ、「気味が悪い」と話していたらしい。

学生たちと一緒に(エラン)

仲よし
■プロポーズ、そして岩谷堂へ
しかし、まもなくエランのマダムは、東大法科出の人と結婚。店を閉めて台湾へ行くことになった。初代はマダムの姉がいた岐阜のお寺にあずけられた。
 初代に心を寄せていた川端は、岐阜にいた初代に求婚。大正10年9月、初代は「お父さんが承知するならば、プロポーズを受けます」と承諾した。
 そこで善は急げと、川端康成、鈴木彦次郎、石浜金作、三明永無の4人は、初代の父忠吉に会うため、忠吉が用務員をしている岩手県江刺郡の岩谷堂小学校に向かった。
 4人は制服制帽をきちんと着こんで10月15日の夜に東京を出発。16日朝、水沢駅に着き、そこから忠吉が働く岩谷堂小学校に向かった。
 当時の岩谷堂小学校は、館山ではなく、現在の大通り公園付近にあった。小学校に到着すると、校長室に通された。東大の学生がいきなり4人もやってきて、校長はとても驚いたという。
 忠吉からの返答は「結構でございます。皆さんさえよければさしあげます。娘には大変気の毒なことをしておりますから……」という承諾のことばであった。このあと、4人は盛岡の鈴木彦次郎の家に一晩泊まってから帰京した。

子守奉公時代(13歳)東京
■薄幸だった少女時代
初代の父伊藤忠吉は、岩谷堂の市街地から1キロくらい離れた増沢の農家の長男であったが、姉に婿をとって自分は同じ増沢の家に婿入りをし、二児をもうけた。しかし、事情があって離婚し、職を求めて福島の会津に移り、学校の用務員となった。
 この学校の臨時にきていた用務員のサイと再婚して生まれたのが初代と妹マキ。初代は学校の用務員室で生まれたので、名前は校長がつけてくれた。
 ところが、その幸せも長くは続かなかった。大正3年にサイは9歳の初代と2歳のマキを残して死んでしまう。二児を抱えた忠吉は困り果て、翌年、初代を亡妻の家にあづけ、マキを連れて岩谷堂の生家に帰った。
 亡妻の実家にあづけられた初代は、子守奉公などをし、その後、東京に出る。東京本郷の写真家で撮った写真には「十三才」という裏書きがある。カフェーエランの女給となったのは、14歳頃であったという。
 岩谷堂から戻った川端は、川端の才能を見抜いていた菊池寛の援助で駒込に新居となる部屋を借りる。
 初代との新婚生活へ向け、準備が着々と進んでいたかに見えたが、ついにその幸せは、訪れなかった。

大正時代の岩谷堂小学校
■破約の謎
結婚の約束からわずか1カ月後、岐阜にいた初代から川端に《突然、非常なことが起こって、あなたと一緒になることはできない。今後お目にかかることはできない》というような手紙が来た。
 比較的長い手紙であった。その一部を引用する。
「私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様と固いお約束を致しましたが、私にはある非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。私今このようなことを申し上げればふしぎにお思いになるでしょう。あなた様はその非常を話してくれとおっしゃるでしょう。その非常を話すくらいなら、私は死んだ方がどんなに幸福でしょう。(中略)お別れいたします。さようなら」
 これが川端研究家のあいだで「非常の手紙」と呼ばれる初代からの手紙だ。
 驚いて川端らは岐阜に走ったが、初代が取り合うことはなかった。なぜ、急転して初代が破約をしたのか……。文中の「非常」とは、いったい何のことを意味するのか。その理由は今も謎のままである。

川端から忠吉にあてた手紙