■江刺文化懇話会が文学碑を建立
昭和49年6月15日、奥州市江刺区岩谷堂の向山公園展望台隣りに、江刺文化懇話会(佐藤菊蔵会長・当時)が中心となって、北上山系から取り寄せた蛇紋岩を使った「川端康成ゆかりの地」の文学碑を建立した。
 文学碑の除幕式には、東大時代、川端康成とともに江刺を訪れた作家の鈴木彦次郎や、文芸評論家の長谷川泉、奥州市江刺区米里出身の詩人・佐伯郁郎も出席した。碑文の揮毫は長谷川泉、撰文は鈴木彦次郎。はめ石は福島県産の浮金石、彫刻は石匠・岡田慶一、庭園設計は江刺文化懇話会会員の伊藤貢であった。
 除幕式の当日、江刺文化懇話会は鈴木彦次郎と長谷川泉を講師に、建立記念の講演会を開催した。演題は鈴木彦次郎が「若き日の川端康成」、長谷川泉が「川端文学の精髄」であった。
 この講演の内容は、序幕からちょうど1年経った昭和50年の6月15日に発行した『川端康成文学碑建設記念講演集』に収録されている。

「川端康成ゆかりの地」文学碑(現在)

除幕式の日
左より桜井澄子(初代孫)、伊藤重吉(初代の生家の当主)、伊藤マキ(初代妹)、鈴木彦次郎(作家)、桜井靖郎(初代三男)、長谷川泉(文芸評論家)、佐伯郁郎(詩人)、佐藤菊蔵(江刺文化懇話会長)

鈴木彦次郎氏の撰文原稿
■菅野謙氏と菊池一夫氏の研究
江刺には、伊藤初代と川端康成について、地道に調査を重ねてきた2人の研究者がいた。奥州市江刺区愛宕の菅野謙氏と奥州市江刺区藤里の菊池一夫氏である。菅野氏は岩谷堂小学校の校長などを務めた人。昭和47年5月、「週刊女性」(光文社)の編集者から川端康成と伊藤初代について取材したいとの申し込みがあり、その取材に応じたところ、菅野氏が話した内容と異なる記事を紙面に掲載された。
 このことに憤った菅野氏は、その年12月、『川端康成氏と岩谷堂』を出版。菅野氏が知っている内容を粛々とつまびらかにした。菅野氏の研究を引き継いだのが、菊池一夫氏である。菊池氏は川端康成の関係者、伊藤初代の親族にさらに取材を深めた。菊池氏は平成3年に『川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯』を出版。これによって岩手県芸術選奨を受賞している。また、平成5年にも『伊藤初代の生涯 続編 エランの窓』 を出版した。

左)『川端康成と岩谷堂』菅野謙(昭和47年12月28日)
左中)『川端康成文学碑建設記念講演集』江刺文化懇話会(昭和50年6月15日)
右中)『今日も○だな−公民館長の日記から−』菊池一夫(昭和57年1月24日)
右)『論説集 太陽はどこだ』菊池一夫(昭和58年1月15日)


左)『北の窓』菊池一夫(平成11年12月20日)
中)『伊藤初代の生涯 続編エランの窓』菊池一夫(平成5年11月3日)
右)『川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯』菊池一夫(平成3年2月27日)
■菊池一夫(きくちかずお)プロフィール   
大正2年(1913) 2月10日江刺郡藤里村の農家の長男として生まれる。小学校卒業後農業に従事。 昭和ひとけた
時代に同人誌『伸びる道』を発行、およそ3年。
昭和8年(1933) 12月現役兵として工兵第19大隊(朝鮮)入営。
昭和11年(1936) 3月藤里村産業組合に雇用。その後農業会、農業協同組合に勤務。 昭和30年代に日刊『県南タイムス』に小説「青い気流」及び、続編「白い虹」を掲載農協在職中に機関誌『岩手の農協』に寄稿する
昭和45年(1970) 農業協同組合を定年退職、以後理事となる。 岩手日報の「せん茶ばん茶」「論壇」「声」等に寄稿
昭和54年(1979) 4月江刺市立公民館館長に就任(現・奥州市江刺区
昭和57年(1982) 1月『今日も○だな│公民館長の日記から│』出版
昭和58年(1983) 1月『論説集 太陽はどこだ』出版 岩手県芸術祭において「沈丁花」で芸術祭賞を受賞する
昭和63年(1988) 岩手県芸術祭において「北の窓」で芸術祭賞を受賞する
平成3年(1991) 2月『川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯』出版
平成3年(1991) 『川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯』で岩手県 芸術選奨受賞
平成5年(1993) 11月『伊藤初代の生涯 続編 エランの窓』出版
平成11年(1999) 12月「沈丁花」「北の窓」等の作品をまとめた『北の窓』出版
平成12年(2000) 12月29日永眠