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及川豪鳳
及川豪鳳は明治27年11月23日、中町の現及川利臣宅に生れた。父・窟堂の影響もあってか幼少の頃より絵・書にその才能を表わし、商人にしようとした父の意見に従おうとしなかった。この時、絵では生活できないことを身をもって知っていた窟堂は、これを断念させようと小屋に閉じこめたが、泣きながらも何かを描こうとする息子を見てこれを許したという(チヨ談)。こうして大正3年、19歳の折、名のある画家となるべく大望を抱き、東京小石川の川端画学校(日本画)に入学した。当時は田舎者と見下されたり、一日の食事が腐りかけたりんご一個のみだったことも度々だったという。さらに大正5年3月に母が、続いて9月に父が相次いで病死するという非運に見舞われながらも、豪鳳の絵に理解を示していた母の実家の二代・菅原権五郎に弟妹を託し、経済的な援助を受けながら学業を続け、優秀な成績で卒業し将来を嘱望されたのである。師匠から息子の玉雪の一字を貰い、本名「一」と合わせ「一雪」とするように言われたが、自分であえて豪鳳と称した。このことからも、中央画壇で活躍できるという自信を持っていたことが窺える。 |
(右)及川豪鳳 (右中央) 豪鳳妻チヨ (中央)弟・勇次郎(前沢・絹川家を継ぐ)
(左中央) 上の妹・喜代乃(福島家に嫁す)(左)下の妹・喜久代(菊地家に嫁す)
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豪鳳20代の頃の家族。右から、豪鳳、長男隆夫、長女幸子、妻チヨ
通りに立つ豪鳳
二代・菅原権五郎の肖像(豪鳳筆)
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豪鳳愛用の筆
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川端画学校の卒業証書
書道塾を開設していた頃の豪鳳宅
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