及川利臣
三代目・及川利臣は大正11年(1922)奥州市江刺区増沢・菅原家の三男として生まれた。少年時代から画才があり、18歳の時に上京し、東京図案専門学校に学んだ。当初から自立しなければならず、師の自宅に住み込みの書生として学んでいた。その後、大正製薬に入社し、同社宣伝部の創設に参加した。
 この入社にはエピソードがある。師の元を出て就職先を探していたところ、新聞に「宣伝マン募集」という大正製薬の求人広告が載った。これだとばかりにすぐさま面接を受けたが、募集していたのはデザイナーではなくセールスマンであった。しかし、このときの面接官の中から「我が社にもこういう人材がいてもいいのではないか」という声が出て、怪我の巧妙で採用され、更に他にも同様の人材が集められて宣伝部が誕生したという。当時の常務に、後の大正製薬社長・上原正吉氏もおり、氏とは終戦後も親交が続いた。
 入社後、東京興亜工業技術機械製図科夜間部・数寄屋橋クロッキー研究所夜間部で学びながらデザインに従事したが、出征と同時に退社、復員後江刺に戻り、縁あって及川家に養子として入籍し、昭和22年(1947)豪鳳の長女さち子と結婚した。以後岩手のデザイナーの草分けの一人として今日まで制作を続けている。
 主な作品には、昭和45年(1970)の岩手国体馬術とウエイトリフティングのポスターや各種運動キャンペーンのためのポスターなどがあるが、中でもシンボルマークデザインに関しては全国的な活動を展開し、多数の作品が採用され、及川利臣の名声を世に残している。著名なものも、日中正常化10年前に採用され現在も使用されている日中友交バッヂ(北京放送)、沖縄復帰記念植樹祭マーク、東大阪市章、三陸鉄道社章、岩手県男女共同参画マーク、ゆうあいピック東京大会シンボルマーク(第一回全国精神薄弱者スポーツ大会)、航空自衛隊章(石川県)、千葉テレビ章(千葉県)、瀬戸の花嫁祭りキャラクター(愛媛県瀬戸町)、イッシーキャラクター(鹿児島県指宿池田湖)など数えきれないほどである。またかつてテレビ広告の主流であったコマーシャルカードコンクールにおいて日本一になったこともある。
 しかし、数あるシンボルマークの中で、私たちに最もなじみ深いものは何と言っても岩手県章であろう。このデザインは豪鳳が立案し、利臣が清書したものだという。県での登録は利臣の判断により、原案者豪鳳(一)名であるが、親子共作だったものである。なお、県内外の校章にも数多く採用されていることも付け加えておきたい。
 また、標語・作詞や短歌にも及び、大平内閣時に世界児童年スローガンで総理府総務長官賞を受賞、新宿御苑での観桜会にも夫婦で招かれるなど、利臣は今で言う一種のマルチクリエイターで、それら全てを含む過去の入選は実に約600点を数える。これほどの実績を持つデザイナーがこの江刺にいたことに、あらためて驚きを禁じえない。

妻・さち子

及川利臣

上原正吉氏からの年賀状
上原氏の叙勲など祝い事があると必ず案内状が送られたが、その頃東京は遠く、ささやかなお祝いを贈っていた。上原氏からはその何倍もの返礼が届いたという。

大正製薬宣伝部員
(左から2人目が利臣・昭和19年頃)

新宿御苑での観桜会での利臣夫妻(昭和50年)
この時、福田繁雄氏に会場で出会ったという。

緑化強調県民運動ポスター
(昭和57年・県知事賞)

岩手国体競技ポスター腹案原画(昭和45年)

第23回全日本馬術大会ポスター原画

(上)絵入り年賀葉書・岩手県版
(平成4年・東北郵政局長賞)
(下)絵入り年賀葉書・秋田県版
(平成9年採用)


水沢名所絵はがき表紙

平和ポスター展出品作