及川利春
四代目・利春は昭和22年(1947)利臣の長男として出生。当時の医療ではおそらく命を保てないであろうと言われたほどの未熟児であったという。豪鳳が懐に入れて毎日のように病院に走るなど、家族の必死の育児の結果、生き延びたと後々本人は言い聞かされたそうである。
 この子どもを、家族はあえて美術の教育を施すようなことはせず、あくまで自由意志に任せて育てた。それはかつて芸術家ゆえのつらい時代を経てきたからこその思い遣りでもあったろう。その甲斐あって(?)か、少年時代の利春は絵画や書道に全く興味を示さず、専ら近所の子どもたちと近くの広場や山や川で遊びまわっていたようだ。悪戯が過ぎて豪鳳に小屋に閉じ込められること度々だったという。
 そんな少年がデザインの道を志すようになったのは、高校三年の半ば頃。進路を決める時期に来て、やっと「自分に出来ることに本気で取り組んでみようか」とおぼろげながら考え始めたという。たまに父の仕事を手伝ううち、中学高校のころには、既に明朝体とゴシック体はほとんど書けるようになっていたから、コンクールに出品すれば必ずと言っていいほど入賞していた。(ちなみに賞品は殆ど文具で、後にある先生をして「おまえは文具を買う必要のない子だったなあ」と言わしめた)。更に、高校時代に日本スポーツ少年団のマークで2席に選ばれ、東京オリンピックに招待されたことも大きな自信に繋がったようである。
 武蔵野美術大学に入学してからも、文字に対する興味が強く、専門コースも、当時まだ目立たなかった編集デザインを選択。卒業後、かの福田繁雄氏の推薦を受けて、専門誌「グラフィックデザイン」(講談社・季刊)の編集部を兼ねたグラフィックデザイン社に入り、世界的なデザイン評論家・勝見勝氏の元で修業を重ねた。当時編集部には第一線級のデザイナー達が出入りし、そうした先輩達と触れ合う中から、得難い多くを学んだ。特に「市民のためのデザイン」という勝美勝氏の言葉は、今も座右の銘のようにそばにあるという。
 こうして培ってきたものがやがて岩手で実を結び、盛岡の印刷会社時代から、多くの人に共感をもたれるデザインを常に心掛けつつ、現在に至っている。

利春・幸枝夫妻
有名なモザイク画のあるサンタ・ポリナーレ・イン・グラッセ教会にて(イタリア・ラヴェンナ)。利春は職業上の興味から、イタリア各地に保存されている中世の装飾写本を見るために、毎年のようにトスカーナ地方を訪れている。ちなみにこの旅での妻の目的はルネッサンス美術とコーヒーだという。

第2回世界ハート展作品「心月」
  (ハートムーン・岩谷堂高等学校蔵)


創玄会ポスター「墨戯生涯」
  (書道研究創玄会蔵)

岩手のグラフィックデザインの流れ展作品「心林 IWATE」
  (萬鉄五郎記念美術館蔵)

岩谷堂高等学校 80周年記念誌

ケセン語訳「新約聖書」

(右上)つなぎ温泉・四季亭「季楽里」ロゴタイプ(遊墨)
四季亭便り「季楽里」が第16回日本DM大賞で東北ブロック賞受賞(郵政省)
(左)―地域づくり情報誌「オリザ」(岩手県地域振興部地域振興課)
平成11年度地域づくり情報誌コンテストで特別賞受賞
(地域づくり団体全国協議会)
(右下)―日本酒ラベル(大阪・大門酒造)