岩手県立美術館 館長
佐々木英也
お習字のため私が豪鳳先生のお宅に通い出したのは小学校の一年か二年、つまり六〇余年前のことである。当時、私の生家の伊豆倉菓子店もまだ健在で、先生をわが家に迎え、何か揮亳してもらったりした。またすでに始まっていた日支事変の出征兵士の弾除けの千人針のためだったか、サラシに虎の雄叫びのさまを描いてもらったこともある。
 隔日か週に一度か忘れたが、とにかく学校から帰って習字に行かなくてはその日のケリがつかなかった。通った人はみな覚えているであろうが、入ってすぐの座敷に小さな平机が四つか五つ並べられ、順番がくるとそこに正座してまず墨を磨り、手本をみながら半紙に筆をおろし、できあがるととなりの座敷の先生の前に持っていって朱筆で直してもらう、しかるのちもう一度書くというやり方だったと記憶する。
 先生はふだんまことに好好爺でつねに和服をつけ、有名な禿頭を輝かせつつ機嫌よくさまざまな説教を垂れ、いささか良俗に反することも口にされた。われわれにとって学校とはひと味ちがった愉しい溜り場だったわけである。
 それはそれとして、私にはひとつ痛恨の思い出がある。ある日のこと、先生はいつもとちがって早めに生徒たちを帰して部屋を閉め切り、何か絵の制作にとりかかった。だが好奇心にかられた私はすぐには帰らずに裏の畑の方の障子のガラス窓から覗きこみ、叱られてもくりかえした。その夜であったか先生がわが家にお出でになってきつく破門を申し渡され、親父ともども平身低頭してお許しを願った。
 さて及川家にはやさしい奥様といかにもしつけのよいしとやかな姉妹がおり、われわれ商家とは趣きを異にしていた。御子息の隆夫さんは確か盛岡の師範学校に行っていて、ときたま帰省の折りに見たにすぎない。本当によくできた素直な若者で先生の自慢の種だった。隆夫さんといえば今なおすぐ眼蓋にうかぶのは、町民運動会の最後を飾るマラソン競争のとき中町を代表してスタートラインに立った凛々しいパンツ姿である。だが間もなく大東亜戦争となって動員され、輸送船で南方へと向かっていたさなか敵の魚雷をうけてあえなく世を去った。先生の歎きは深く、めっきりやつれたお姿を拝するのは痛ましき限りであった。戦後、利臣さんを迎えられ、お孫さんが生まれたと聞いてホッとしたものである。
 先年、えさし郷土文化館で行われた展覧会で豪鳳画伯の多くの作品に接することができた。ほとんどすべて初めて目にしたもので、とりわけ優艶きわまりない女性像に、ははあとうなずき、先生やるもんですなと声をかけたい想いであった。
 このたび「及川四代展」が開かれるそうで、関係者の御努力に敬意を表したい。窟堂という方は知らないが、わが岩谷堂にもこのように優れた芸術家の血統が脈々と存続していることを確認し、まことに誇らしい。
 以上、先生を偲んで一文を草したが、何分にも遠い昔のことで間違いがあるかもしれず御寛容を願うほかない。展覧会の御成功を祈ります。

自室で制作中の豪鳳(昭和40年代、自室改装後)