▼佐々木又治 明治29年(1896)3月23日〜昭和39年(1964)9月29日 西磐井郡山ノ目村赤荻(現一関市)出身。一関中学校に入学、二年時に盛岡中学校に転校し、卒業。大正4年(1915)、盛岡高等農林学校農学科第二部(農芸化学)に入学。賢治と同級、秀松と同学年。 三年時大正6年(1917)の江刺郡地質調査に、賢治・秀松と同行した。大正7年(1918)高農を卒業し、南洋拓殖工業会社に入り、東カロリン群島クサイ島に赴任し、大正9年(1920)帰国。 大正15年(1926)、花巻農学校を退職した賢治の後任として教諭となり、物理・化学・土壌・肥料等を担当、昭和7年(1932)まで勤めた。のち、広島県庄原実業学校から深安実業学校校長を経て、昭和19年(1944)、下閉伊郡宮古町(現宮古市)のラサ工業に入社、煙害調査係主任として自社精錬所の公害研究にあたった。 …………………………………… ▼高橋秀松 明治29年(1896)5月7日〜昭和50年(1975)12月17日 宮城県名取郡増田町(現名取市)出身。生家は大正頃まで旅館業。大正4年(1915)、宮城県立農学校卒業、同年盛岡高等農林学校農学科第一部(農学全般)に入学。賢治、又治と同学年。 一年生の時寄宿舎で賢治と同室になって親交を結び、たびたび山野行を共にした。大正6年(1917)三年時の江刺郡地質調査に、賢治・又治と同行した。 大正7年(1918)高農を卒業し、茨城県立農業教育養成所兼農学校教諭。大正9年(1920)京都帝大経済学部選科に入学、大正12年(1923)卒業。安田保善社勤務後、昭和19年(1944)帰郷、農協役員、名取町長を経て、昭和33年(1958)初代名取市長になった。
賢治・種山ケ原関連作品の中の [自然語彙] (賢治の表記による)
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