賢治にとって、重要な意味をもつ場所のひとつは種山ヶ原です。ここは単なる場所ではなく、困難なせかいに出発する場としてのフィールドでした。この風土と人を通して、あるべきイーハトーブを目指したのです。 賢治文学と思想の真の形成は、大正6年の江刺郡地質調査に始まり、種山ヶ原への深い関心は最晩年におよびます。 |
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はじめに賢治文学のうち、とりわけ種山ヶ原・五輪峠作品群(50編余り)を生むベースとなった、主として地理と歴史について、いくつか述べたい。これは賢治と賢治の文学を考える上で大切なことだと思われる。 岩手は広い。面積は15、279嘯ナあり、これは東京・神奈川・香川・佐賀・石川・沖縄の面積の総計と同じである。東京は、わずかに岩手の七分の一の面積なのである。 この岩手県の面積の約三分の二を占めているのが、北上山地である。この山地は、北は青森県八戸市附近から岩手県の東半分を経て、宮城県牡鹿半島に及ぶ南北250q、東西最大80qの高原状の山塊である。 こうした巨大な山塊のなかに、種山ヶ原は広がっている。位置は北上山地の南西。奥州市江刺区・遠野市・気仙郡・東磐井郡(現・一関市)・上閉伊郡の2市3郡にまたがって高原状をなす。物見山(870・6m)を頂点に600mから870mの丘陵地を形成している。 種山ヶ原は、地理学において隆起準平原と呼ばれ、これは地形を表す語である。老年期を迎えた山地が、さらに浸食作用を受けて、地域全体が平原状になった地表面の形状を言う。県内では貞任山高原・外山高原・区界高原・平庭高原などがこれにあたり、種山ヶ原はこの準平原の典型的なものと言われる。 また、岩石などの固い部分が浸食から取り残されて孤立した丘を残丘=モナドノックと呼ぶ。後者は、アメリカのニューハンプシャー州にあるモナドノック山にちなんだものである。県内では物見山をはじめ、貞任山・早池峰山・薬師岳・兜明神岳・姫神山・平庭岳などが残丘である。これら、準平原やモナドノックの語は賢治が好んで使った語なのである。 種山ヶ原には伝説がある。約1200年前、蝦夷の将軍悪路王とその弟大岳丸が、政府軍の将軍坂上田村麻呂によって討たれた。大岳丸の子に人首丸という美少年がいたが、人首川に沿ってさかのぼり、種山近くの大森山に逃れた。要塞を築いてたてこもったが、政府軍の田村阿波守兼光によって首を切られてしまった。兼光は大森山に堂を建て観音像を安置した。堂はその後、山火事で何度も焼け、仏像はついに人首川に流され、玉里の大森部落で拾われ(移した、とも伝えられている)、大森観音としてまつられたと言う。 種山ヶ原は、藩政時代に伊達公直営の放牧地であったと言われる。明治維新の頃からは近在農民の採草放牧地として自由に利用されてきた。明治34年(1901)、軍馬補充部六原支部種山出張所が、放牧地として4、700haを経営、大正14年(1925)には世田米町営の放牧地として352haを利用、その他は国有林となった。昭和15年、世田米国営牧野が1、188haを経営、昭和22年には種山国営牧野と改名それた。同24年、県営種山牧野、31年岩手県種山牧野と改名され、1、144haを経営したが、平成13年3月閉鎖された。 この牧野を含む種山ヶ原は、南北20q、東西11qに及ぶ広大な草原で、西に須川岳・焼石連峰、眼下に北上平野、北に岩手山・早池峰山、東に五葉山・室根山等を望むことができる。 |
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◆2― 野・高原・山の意味 これらは、まず生活と深く結びついた場としてあった。建築用材やたき木を得、山菜やぶどうやくりを採取し、さらに狩りをした。牛馬を放牧し草を刈った。そしてそこから流れ来る水を戴いた。何よりも生活に必要なものを戴いてくることのできるフィールドであったのである。 このほかに、野原や山の性格と本質が端的に表れるのは、民俗生活のなかでも特に宗教的な行事においてである。野山から正月用の松を迎え、盆に盆花を迎えた。これらは、祖霊が依るための依代であり、それらを戴いてくる行為は、祖霊を迎える行為なのである。このような意味もまた、賢治の文学を考える上で大切なベースになるだろう。 |
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