フィールドの発見 Kyo Sasaki 佐佐木 匡
◆童話「種山ヶ原」 (冒頭部)
  種山が原といふのは北上山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩や、硬い橄欖岩からできてゐます。高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の底には、ほんの五六軒づつの部落があります。
(数行略)
 放牧される四月の間も、半分ぐらゐまでは原は霧や雲に鎖されます。実にこの高原の続きこそは、東の海の側からと、西の方からとの風や空気のお定まりのぶっつかり場所でしたから、雲や雨や雷や霧は、いつでももうすぐ起って来るのでした。
(大正10年頃の作。初題「霧穂ヶ原」)

■種山牧野の沿革
藩政時代 伊達藩直営牧場
明治元(1868)頃〜明治33(1900) 近在農民採草牧草地
明治34(1901)〜大正14(1925) 陸軍省軍馬補充部六原支部種山出張所放牧地
大正15(1926)〜昭和14(1939) 世田米町営・米里村営放牧地
昭和15(1940)〜昭和24(1949) 農林省世田米国営牧野
昭和22(1947)〜 種山国営牧野に改名
昭和24(1949)〜 岩手県営種山牧野
昭和31(1956)〜 岩手県種山牧野に改名
平成13(2001).3 岩手県種山牧野閉鎖



「天かける雲」より
◆写真[種山ヶ原] 撮影者小野智保(撮影昭和27年〜30年)
撮影者は江刺郡伊手村(現奥州市江刺区)出身。岩手大学農学部獣医学科に在学中の昭和25年(1950)に、有志と写真部を創設し、部長となる。昭和27年(1952)、種山ヶ原の広大な風景と賢治の文学に出会って感動し、この年から昭和30年(1955)にかけて多くの写真を撮る。
昭和30年(1955)には早くも川徳画廊で、有志と種山ヶ原写真展を開催した。

◆モニュメントでたどる賢治の宇宙
■賢治 種山ヶ原・五輪峠作品群(太字は記念碑になった作品)
大正6年(1917)9





10
▲歌稿A 「上伊手剣舞連」4首
「種山ヶ原」7首
「原体剣舞連」2首
▲歌稿B 「上伊手剣舞連」3首
「種山ヶ原」10首
▲書簡(友人宛)「上伊手剣舞連」4首
「アザリア」第3輯「種山ヶ原」4首
         「原体剣舞連」3首
大正10年 (1921)
▲童話「さるのこしかけ」
▲童話「種山ヶ原」
大正11年 (1922)6
8
▲詩「高原」(「春と修羅」の目次では「叫び」)
▲詩「原体剣舞連」
大正12年 (1923)4
▲童話「やまなし」
大正13年 (1924)2
3



8
▲以前童話「風野又三郎」(初期形)
▲詩「五輪峠」(下書き稿に俳句3句)
▲詩「丘陵地を過ぎる」
▲詩「人首町」
▲詩「晴天恣意」
▲戯曲「種山ヶ原の夜」上演
          歌曲「種山ヶ原の夜」の歌(劇中歌)
             〔一〕「応援歌」
             〔二〕「剣舞の歌」
             〔三〕「牧歌」
大正?
▲歌曲「種山ヶ原」
大正14年 (1925)4
7
▲詩〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕
▲詩「種山ヶ原」下書き稿〔一〕
▲詩「種山ヶ原」
▲詩「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」
大正14年 (1925)




▲詩〔朝日が青く〕
▲詩〔行きすぎる雲の影から〕
▲詩〔若き耕地課技手のIriに対する
   レシタティヴ〕
▲詩〔おれはいままで〕
▲詩〔高原の空線もなだらに暗く〕
昭和5年 (1930)?
▲文語詩「種山ヶ原」
昭和6年 (1931)
▲以降小説「泉ある家」
▲小説「十六日」
昭和7年?
▲童話「風〔の〕又三郎」(後期形)
昭和8年 (1931)8
▲文語詩「五輪峠」(「文語詩稿五十篇」)
大正10年▲童話「種山ヶ原」(「風〔の〕又三郎」に発展)
大正12年?▲童話「さいかち淵」(「風〔の〕又三郎」に発展)
大正13年2月以前▲童話「風野又三郎」(「風〔の〕又三郎」に発展)
◆国語教科書に掲載されている賢治の江刺・種山ヶ原にかかわる作品
*童話「やまなし」光村図書『国語』六年下
*詩「高原」桐原書店『高等学校現代文』
      日本書籍『新版高校国語二』二訂版
*詩「原体剣舞連」日本書籍『新版高校国語二』二訂版

※「宮沢賢治研究Annual」第11号の「小学校・中学校・高等学校国語教科書に掲載されている宮沢賢治の作品(2000年度現在)作成 宮川健郎」による。