▼宮城館(旅館)の主人
 大正6年(1917)1月4日、賢治商用のため上京。両国橋畔の宮城館に、叔父の恒治と宿泊。主人は岩谷堂出身。賢治の本家(宮善)の常宿。
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▼人首の御医者さん
 大正6年(1917)8月〜9月の江刺郡地質調査の際に出会った医者。
 大正7年(1918)4月18日 佐々木又治(前年地質調査に同行した友人)宛手紙
「…又、阿原山ヤ人首ノ御医者サンナドヲ思ヒマス。…」
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▼及川千蔵
 岩谷堂及川千蔵組の頭。大正11年(1922)8月、郡立稗貫農学校(大正12年4月県立花巻農学校となる)の新築工事を請負った。本館、寄宿舎その他676坪、54、700円。
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▼菊池武雄
明治27年(1894)12月8日〜昭和49年(1974)7月11日
 江刺郡稲瀬村出身。大正5年(1916)岩手師範学校卒業。盛岡市城南尋常高等小学校訓導(8年間)から大正13年(1924)福岡中学校教諭に転じ、図画を担当。福岡時代に、岩手師範の同級生で城南小の同僚であった藤原嘉藤治の紹介で、賢治に童話集『注文の多い料理店』の装丁と挿絵を依頼される。菊池は辞退したが、賢治から職業画家でない方がよいと励まされ、挿絵はすべて自由に構想して描いたという。
大正14年(1925)上京、図画の教師を続けながら深沢省三(盛岡出身、画家)、鈴木三重吉(童話童謡誌「赤い鳥」主宰者)らと交友と結び童画を描く。この時期、菊池は賢治の童話を三重吉に見せたが「あんな童話はロシアにでも持っていくんだなあ」と断られている。大正15年(1926)三重吉の仲人で結婚、賢治が新居を訪ねる。
 昭和4年(1929)第10回帝展(現在日展に改組)に入選。なお、江刺には油彩画「養蜂風景」(昭和6年・江刺市蔵(現・奥州市江刺区)が残されている。
 昭和6年(1931)9月賢治が商用で上京し発熱、神田区八幡館で病臥の際、菊池に電話があり、かけつけて世話をした。賢治は発熱の翌日、死を覚悟し父母宛遺書、弟妹宛に別れのことばを書く。
 昭和8年(1933)第5回北斗会展、昭和9年(1934)年第6回北斗会展に出品。北斗会は、大正12年(1923)岩手県出身者を中心に結成された在京美術家団体で、昭和16年(1941)まで活動した。
 なお、菊池は上京後、西巣鴨第二小学校、四ッ谷第六小学校、四ッ谷高等女学校で教師を昭和14年(1939)年まで勤めた。
 現在、稲瀬に家はないが、菊池は自分の故郷は稲瀬だと言って、墓が稲瀬の広徳寺にある。葬儀には、前記した藤原嘉藤治が参列した。
 また、奥州市江刺区中町出身の日本画家及川豪鳳の同級生として親交があり、その孫利春の東京時代の保証人であったという。


菊池武雄が装丁した
『注文の多い料理店』

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▼佐藤昌一郎
明治28年(1895)7月1日〜昭和25年(1950)10月21日 
 江刺郡稲瀬村出身。大正5年盛岡中学校卒業。賢治の後輩。大正9年まで実家の亜炭山を経営。稲瀬小、警視庁巡査、江刺郡愛宕小学校、稲瀬小学校教員を歴任した。
 昭和6年1月9日佐藤昌一郎宛手紙
「別便は甚粗品に有之候へ共全快御挨拶の御印迄並びに十数年以前御約束致せし趣の豚肩一片旁々御笑納被成下候はゞ幸甚に有之先は右御礼迄…」
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▼菊井清人
 江刺郡梁川村出身。花巻農学校に入学、賢治の指導を受ける。大正15年同校卒業(第5回生)。のち小学校教員。
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▼菊池庄一・平野宗・大滝勝己
 菊池と平野は江刺郡玉里村出身。大滝は同郡福岡村(現北上市)出身。大正15年1月15日花巻農学校に開校した岩手国民高等学校において、賢治の講義「農民芸術」を受講(11回)した。他の講義には水沢緯度観測所長木村栄の「緯度観測」もあった。
 同年3月27日終了式。賢治はこの4日後に花巻農学校を依願退職し、独居自炊の生活に入った。
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▼高橋慶吾
明治39年(1906)12月28日〜昭和53年(1978)4月23日
 江刺郡稲瀬村出身。父は稲瀬村や花巻川口町などの養蚕教師や麦作指導を通じて賢治を知っていた。父は慶吾の将来を案じ、農耕自炊中の賢治を訪問させた。以後羅須地人協会に出入りし、楽団でヴァイオリンを弾いたりした。
 賢治は高橋の職を心配し、昭和2年レコード交換会を開かせた。3年には共済組合を組織し、さらに消費組合とした。のち、この事業のうちの牛乳販売を続けたが戦時中は休業。戦後は豆腐製造業。
 少年時からキリスト教信者だったが、賢治の影響により仏教を信仰、昭和43年出家、慶雲と号し無寺托鉢の生活を送った。家で賢治遺墨店を開いた。